escenda

意識の在り方について

1 正体を問わずに在り方を語る

意識の正体は分からない。それでも意識の在り方は語れる。正体の同定は、在り方の記述の前提ではないからだ。ニュートンは重力が何であるかを言わなかった。彼が書いたのは、質量を持つ二つの物体が距離の二乗に反比例する力で引き合う、という振る舞いだけである。それでも惑星の位置も潮の満ち引きも計算できた。正体が分からないまま、振る舞いの記述だけで重力は扱えるものになった1。私は意識について同じ手順を取る。意識が何であるかではなく、意識がどこに置かれ、何に晒され、そこで何をしているかを述べる。

置かれ方は次の並びで表せる。現世、情報、人、意識。現世があり、そこから情報が来る。情報は人という箱に届き、意識はその箱の中に身を置く。この四つの順序は、情報が意識に届くまでに通る経路である。意識は現世に直接触れない。意識が触れるのはつねに、現世から来て箱を通った後の情報である。

現世から来る情報はありとあらゆるものを含み、その多くはノイズである。意識が人という箱の中に身を置くのは、その量の中で自分の本質を見失わないためである。この本質を正面から問うたものが、意識の根源的な問い、すなわち自分自身は何者かという問いである。現状の科学はこの問いに答えを見出せていない。私はその理由を、現世から来る情報が持つ本質的な成分とノイズな成分の比率に見る。ノイズの側が大きければ、観測をどれだけ重ねても本質的な成分は像を結ばない。意識の正体が分からないという事実そのものが、この比率の帰結である。だから私は、正体を問う前に、情報がどのように来るのかを見る。

2 情報の植物構造と意味

意味を伝達するという行為には、植物の比喩のような構造が根ざしている。その構造は文において最も見やすいので、まず文から入る。文はたとえにすぎず、はじめから文に限った話ではない。

単語には本来、意味はない。文の中で単語とは、意味の起点となる柱である。柱は単体では意義を持たない。単語は、文の中で固有の位置を持ち、固有の柱の形状をすることに意義がある。柱を繋ぐと道ができて、それが橋になる。これこそが文であり、その道を通ることで初めて意味というものが生まれる。意味は要素の側になく、要素の配置と、その配置が許す通行の側にある。

言葉というものにはいくつものノイズが入り交じる。植物の葉も、ひとつの茎(単語の柱を紡いだ橋)にある葉や枝、花が分岐する膨らんだ部分を指す節から、互生、対生、輪生、というように、多様な葉序でその生を保つ。文において単語を織り交ぜる過程は、植物のこういった形態を彷彿とさせる。ただ、その文の中で意識が着目したいのは、いつも茎の部分にある。枝分かれしていく様は茎を組成する一部ではあるが、同時に意識を撹乱するノイズでもある。ノイズは外から混入する異物に限らず、茎が節を作り葉を加えて育つ過程そのものからも生じる。だから、ノイズを取り除いた裸の情報は想定できない。

現世は、その植物が根ざす土である。根っこから栄養を吸収し、茎を通り、節を作り、葉を加え、育った後に、やがて実をなす。情報とは、この物語では、植物のことだったのだ。

Bar-On は、言語を持たない生物の表出的なふるまいがすでに意味を担うことを示した2。私の主張はもとより文に限らない。柱と橋にあたるものは、鳴き声の連なりにも身振りの配置にも置ける。ゆえにこれは比喩がどこまで届くかという適用範囲の課題である。届く範囲が広いほど、意味が要素ではなく通行に宿るという主張を強化する。

3 自己認識の足場

意識が持つ根源的な問いに、自分自身が何者か、というものがある。現状の科学はこの問いに答えを見出せていない。理由は、現世から来る情報が持つ、本質的な成分とノイズな成分の比率にある。情報は、二つの成分が混ざったまま箱の中へ届く。

透明性テーゼはこう言う。経験を内省しても、見つかるのは経験そのものではなく世界の側の性質だけである3。Gennaro はこう言う。何かに没頭しているあいだ、自己への明示的な意識は現れない4。

私はこう考える。足場は内側ではなく外にある。意識は世界との相互作用における反発のパターンを介して自らを規定するのだから、自分を知るとは内側を覗くことではなく、世界がどう抵抗してくるかを読むことになる。内省が比率を測れないのは、届いた情報を眺めるだけでは、どこまでが現世の側でどこからが自分の側かを分けられないからである。反発は違う。こちらが働きかけた分だけ返ってくるので、返り方の違いがそのまま自分の輪郭を描く。

没頭にも同じ道筋が引ける。自己への問いは明示的な内省ではなく創造活動を通じて働く。作ることは現世へ働きかけて抵抗を受け取ることであり、作られたものはそのつど自己を表現する。だから没頭は自己が消える場面ではなく、内省を経ずに自己の存在が確認される場面である。

働きかけ、返ってきた反発を読み、また働きかける。この往復が、自己と現実とを行き来して自己認識を作っていく過程である。往復が成り立つには、押し返してくる側が保存されていなければならない。現世は嘘であれまことであれ存在しており、だから状態は保存され、物理法則が存在する。同じ場所を押せば同じ抵抗が返る。シミュレーション仮説によって、この世が夢だとしても、夢であるこの世を現実と言ってしまえばよく、足場はそれで足りる。

自己は世界に触れる身体を経由してしか与えられないとした Merleau-Ponty の記述は、この往復を別の語彙で述べたものだ5。

4 箱の実在

実存ニヒリズムは、いかなる具体的な対象も存在しないと主張する6。これが通るなら、現世も箱もなく、並びは土台から消える。私はこう考える。私たちが観測している現世は、嘘であれまことであれ、どちらにしても存在している。だから状態は保存されるし、物理法則が存在する。この世が夢だとしても、夢であるこの世を現実と言ってしまえばいい。実在の基準を素材ではなく法則性と状態の保存に置くなら、夢と現の違いは、存在の有無ではなく組成の違いになる。チャーマーズのシミュレーション実在論も同じ側に立つ7。ゆえに、この世が夢かどうかは箱の実在を左右しない。

ニヒリズムには、単純な要素と法則を認めた上で、複合物は余分な存在者ではなく、あるのは人のように配列された粒子だけだ、とする形がある。状態の保存も法則も先に認めるこの形に、夢か現かの議論は届かない。ならば箱の実在は、素材ではなくスケールの水準で示すほかない。

デネットによれば、予測を支え記述を圧縮するパターンは、基礎的存在者でなくとも実在する8。箱もそのようなパターンだ、と言えば話は済む。だが、この議論はニュートン力学の水準にとどまっている。巨視化すればパターンにしか見えない、それはそうだ。しかし量子力学の観点からすれば、そのパターンを成す粒子の量子的な揺らぎが、パターンの語り口の中で捉えられていない。統計的境界という言い方も、同じ理由で怪しく見える。

物理の側は先へ進んでいる。デコヒーレンスと量子ダーウィニズムは、環境が系の状態を冗長に記録することから、マクロな安定性を仮定ではなく導出する9。この導出を私は認める。ゆえに私の疑義は、パターンは実在しないという結論へは進めない。だが同じ導出は、巨視的な安定性が量子の側から立ち上がるという順序を確定させる。

その順序のどこに意識が入るかまでは、導出は決めない。人の意識が量子空間に実存するとすれば、それを巨視的に見た際に人間という箱に包まれている、という道筋が見えてくる。この道筋で箱は粗視化であり、温度と同じ資格で実在する。温度は分子運動の粗視化であり、基礎的存在者ではないが比喩でもなく、そのスケールで実在する。箱は余分な存在者に数え上げられるのではなく、そのスケールの実在として在る。ゆえに冒頭の並び——現世、情報、人、意識——は、存在者の階層ではなく、粗視化の塔として読み直せる。

5 開いた問い

意識は量子空間に実存する、という主張は二通りに読める。機構的に読めば、脳内の重ね合わせが意識を担うことになる。発火の時間尺度に比べ重ね合わせの崩れる時間は桁違いに短く、テグマークの計算と衝突する10。形而上学的に読めば、物理は関係の構造だけを書き、内側は空欄だとする一元論に寄る。デコヒーレンスとは衝突しないが、ジェイムズ以来の結合問題を負う11。私はどちらも選ばない。塔のどの段で実在を認めるかを決める材料を、まだ持っていない。二読は崩れる条件が違う。前者は時間尺度の測定に、後者は結合の説明にかかる。

塔を認めると、統合情報理論の排他性公理との対決が残る。公理は、重なる集合のうち意識は一つだけだと言う12。現世から意識への並びを入れ子と読むなら、意識の座を一つの段に決めねばならない。本稿は決めていない。決めた瞬間に勝負が始まる。

柱と橋は文の外でも読めるか。意味の伝達一般に植物の構造が根ざしているのなら、音楽でも同じ読みが立つはずである。音も単体では意義を持たず、配置ではじめて柱になる。ただし音に辞書の意味はない。この差が構造を壊すかを、まだ測っていない。

正体は分からない。本稿が出したのは答えではなく、分からなさの位置である。分からないと言うとき、私はデコヒーレンス、結合、排他性という三点を指せる。土から吸い上げたものは、節を作り葉を加えるところまで来た。実をなすかどうかは、この三点での勝負が決める。

Footnotes

  1. ニュートンは重力の原因について「私は仮説を作らない」と述べた。I. Newton, Principia, 第2版 (1713) の一般注。 ↩

  2. D. Bar-On の表現的コミュニケーション論。SEP “Animal Cognition” の議論を参照。 ↩

  3. 経験の透明性テーゼ。SEP “Representational Theories of Consciousness” を参照。 ↩

  4. R. Gennaro, The Consciousness Paradox, MIT Press, 2012. ↩

  5. M. Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception, Gallimard, 1945. ↩

  6. 実存ニヒリズムについては SEP “Monism” の議論を参照。 ↩

  7. D. Chalmers, Reality+, W. W. Norton, 2022. ↩

  8. D. Dennett, “Real Patterns”, Journal of Philosophy 88(1), 1991, pp. 27–51. ↩

  9. W. H. Zurek, “Quantum Darwinism”, Nature Physics 5, 2009, pp. 181–188. 境界の量子論的定式化としては C. Fields, K. Friston, J. F. Glazebrook & A. Marciano, Progress in Biophysics and Molecular Biology 173, 2022. ↩

  10. M. Tegmark, “Importance of quantum decoherence in brain processes”, Physical Review E 61, 2000, pp. 4194–4206. ↩

  11. 結合問題の古典的定式は W. James, The Principles of Psychology, 1890, 第6章。ラッセル的一元論については B. Russell, The Analysis of Matter, 1927. ↩

  12. G. Tononi, M. Oizumi & L. Albantakis, “From the Phenomenology to the Mechanisms of Consciousness: IIT 3.0”, PLoS Computational Biology 10(5), 2014. 排他性公理の記述は本文 p.3 および図14。 ↩

戻る